本能寺の変には様々な説が出されているが、どれも確証を得ていないものばかりです。信長公記を読んだ方々はたくさんいると思うが何故、彼が織田信長の記録を残そうとしたのか、この信長公記に本能寺の変の原因となるものが記されていないと皆々思いがちである。だがそれは間違いであることを伝えたい。太田牛一は本能寺の変の引き金となった、場面をこの中に記録しているのであるがこの事実を見過ごしています。これまで眠っていた一次史料である信長公記を元に再現してゆくが、これらはまったく知られていない新見解であり、新事実でもあります。本能寺の変の直前に「信長と光秀、、そしてある人物…」との間で、このような事件が実際にあったということを皆に知って頂きたいので光秀の心の深層の記録を残して置くことにした。
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少しばかり日本史の知識がいるので、ご理解頂きたい ※で簡単に説明します。
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1.法華寺事件の真相に迫る
■本能寺の変が起こる三ヶ月前…
1582年
本能寺の変が起こった年。この三ヶ月前の3月、明智光秀は信長の号令で急遽、諏訪に出陣します。※この時は長篠合戦は終わって第二次武田勝頼の甲州征伐で、信濃に出陣したものです。
3月19日この日、諏訪の法華寺にて陣構えと予行演習的な指示があった。残りの戦処理をしていたことがわかる。木曾義昌は直前に服従してきて領地安堵と信濃二群を貰っている。※信長軍は(明智光秀はこの信長軍にいる) この法華寺にいた模様。主に嫡男の織田信忠軍が事前に出陣しており追い詰めら頼は最期自害します。武田氏の歴史に幕を閉じる年でもある。またここで信長は天下の支配権を嫡男の信忠に譲ることを伝えた。3月29日
旧武田領分割があり、この遠征で戦功のあった者、また重臣たちに所領を分け与えており、その際に出された所領分配をよく見ていただきたい。
〜 信長公記から 与えられた所領分配表
■甲斐 河尻秀隆
■駿河 徳川家康
■上野 滝川一益
■高井 水内 更科 埴科四郡 森長可
森長可は川中島の城に入ることを指示
■木曽谷二郡に加え安曇 筑摩 木曾義昌
■伊那 毛利長秀
以上、信濃十二群
〜 また武田氏に美濃領を攻められて奪われていた東濃と中濃の所領分配と続く
■岩村 団忠直 (岐阜の恵那市)
と続き、最後の所領を見て頂きたい
■☞米田島(岐阜美濃加茂郡)、☞金山(岐阜美濃可児市兼山)これら☞二郡を
■【 ☞森長定に与える 】、、、!?
この森長定とは誰なのか、、森成利でも知られているが、父が森可成、兄は森長可であり信長の小姓で有名な森蘭丸のことである。その本能寺の変で討死する、森蘭になんと二郡も与えられているのである。兄の長可はこの遠征の武功働きにより、信濃四郡を与えられており、兄長可の配分はわかるが、森蘭はこのとき、矢部家定と一緒に、使者として小笠原信嶺に安堵の挨拶に赴いた役割しかしていないのである。これらの所領分配はこれまで理解できそうなこととして、単純に受け止められています。
この後、家臣編成の中で重要な関わりを持っているので、後述します。
この後、家臣編成の中で重要な関わりを持っているので、後述します。
1582年3月
またこの所領分配を終えた後、織田信長は訓令と呼ばれる、11カ条の定のような掟書を重臣たちに見せているが、これら条令の内、気になる箇所があるのでご覧いただきたい。※太線は重要箇所。

~ 信長公記から 分配後の11カ条の掟書
一、知行主が欲張るから家臣たちは困窮するのである。所領相続する際は自分の直轄領とせず、諸人たちにしっかりと分配し、家臣を召抱えよ。
一、所領の境界が入り、時に所有権について論争することがあっても、怨恨を抱いてはならない。

はじめ、この掟書を深く考えず、信長公記を何度も読んでいた。今日に至るまで、誰一人として、追究した形跡がないのであるが、信長は明らかに"争い"を起こすような事は止めろと、最後に定書を入れており、"所領相続で欲張るな"また互いに"怨恨"を抱いてはならないとも厳しく信長が言っています。これら信長が示している条令は、一体なにを意味しているのかお解りだろうか?信長公記に書かれているこの記事を、今まで何事もなく読み飛ばしていたのであるが、史料から見えるある歴史的な事実を突き止めたことで、この法華寺事件での真相がようやく見えてきたのである。
2.法華寺事件と明智光秀の心層

と信長の逆鱗に触れ、頭をはたいたという有名な逸話もこのお寺に残っており、光秀は明らかに不信感を抱いた要因でもあります。それらが、長年、謎であったのですが、まずこの法華寺事件の謎を、完全究明すべく時代を遡って探っているうちに、
》》驚くべき事実が判明したのです!《《
3.美濃国騒乱と一族の争い
(信長がまだ尾張を平定してない頃)
~ 話はさかのぼり、1552年前後※1552年斎藤道三が土岐頼芸を美濃追放
ここで一旦、話を変えたい。森一族について少し語ります。森氏について、研究している研究者は現在ほとんど居ないことである。森氏についての史料というと、森家先代実録、金山記全集大成、兼山記などあるが、信頼できる史料とは言えないので、
※慎重に整理して検討してます。
※慎重に整理して検討してます。
■美濃森氏履歴 森可成
父 森可行 母 青木秀三の娘
正室 えい(妙向尼、林通安の娘)
主君 土岐頼芸→斎藤道三 長井隼人佐→織田信長
まず美濃森氏の成立は定氏から6代目頼師が美濃源氏の土岐氏の被官になったことにはじまる。戦国時代には、森越後守可行(可成の父)と代々継いでいる。その森一族らは、はじめは主君土岐頼芸に仕えており、美濃守護の頼芸は二度、斎藤道三によって追放される。その土岐頼芸に仕えていた、森可行、森可成ら親子は、一時は、近江から滋賀の蓮台村に戻ったとされている。※この際、森氏は長井隼人佐道利に匿われていたとも伝わる。その後、再び美濃斎藤道三のいる、金山城の長井隼人佐に仕えている。
155X年、長井隼人佐はすぐ道三側から義龍側になり、道三の子らを殺害すると森氏はその長井隼人佐から離れて、尾張の織田信長を頼って出仕する。1555年迄には確実に信長家臣になっています。信長の美濃攻略で、頭角をあらわす。
注:当初、この金山城は斎藤大納言正義が居たことから、森一族は、大納言正義が殺害される前まで、この金山城で従っていたのではないかと推測している。
と。まあこのように伝わってます
ですが、、ですが!
この森氏一族の史料を調べていく内に
明智一族となにやら、深い関係があるとしか言いようがない、運命を辿っているのである。森家一族と明智家一族は浅からぬ、因縁があり、驚くほど似たような人生を送っていたのです。
4.道三-頼芸追放した当時の状況

図1
■まずこの構図を見て頂きたい。日本史が詳しい方々でしたら、少し驚かれるかもしれないが、教科書では教えてくれない戦国時代の当時の状況を詳しく説明をします。
■図1
まず明智光秀らその一族は、はじめ美濃の土岐頼芸に仕えるが、斎藤道三との姻戚関係(小見のお方)から道三側になる土岐明智家と、同じ美濃守護の土岐頼芸側に仕えて、頼芸追放後に奔走、道三→義龍→龍興に仕えていた長井隼人佐という人物の支配下にいる、森家一族という構図をまず頭に思い描いていただきたい。
■長井隼人佐道利の経歴
父は長井長弘で道利は嫡男とも、また斎藤道三の庶子とも言われている。
主君 斎藤道三?→義龍→龍興→足利義昭
1555年、義龍の知行状で使者として史料に見える
1556年、義龍が長良川合戦で道三を討った後、斎藤氏の臣下であった斎藤六人衆の氏家常陸介(桑原直元)らと、不和になり、別行動をとる。武田信玄に内通。
1561年5月、義龍急死後、織田信長が西濃攻めで氏家らと和談し龍興に仕えた。長井隼人佐は反信長として行動する。
武田信玄とも内通しており、信玄に信長を、討つように依頼しており継続中。
1565年、信長の美濃攻めでは金山城を信長のために城を明け渡したとされる。その後、また足利義昭にも仕え、元亀二年、荒木、和田惟政の陣で討死。
5.長良川合戦後の当時の状況

■弘治2年 1556年4月 長良川合戦
長良川合戦で一色義龍(范可)との戦に敗れて斎藤道三は討死します。
■ 長良川合戦とその後 ■
■明智光秀の動向を追う義龍は、すぐに道三に味方していた残党勢力を弱体化させるため、美濃国内の討伐を図ります。そして中濃にあるこの、明智城に篭る明智光安らが攻められることになります。明智一族は、諸将と共に明智城に籠城するが、義龍側では、揖斐五郎や金山城の長井隼人佐道利ら攻められ、奮戦虚しく明智光安らはここで、自害します。その際に、明智光秀らは城から退去して奔走してゆくのです。
なぜ、明智庄を含めてこの一帯が長井隼人佐道利が支配していたのかというと、顔戸八幡神社にある当時の史料があります。
1556年、明智光秀らは明智城から退城し、越前など回り奔走し、京都の政変で退去していた足利義昭が、越前に来たことで京に戻すため、姻戚関係がある信長に助けを求めて家臣になっていきます。
その一方で
■ 長良川合戦とその後 ■■森可成らの動向を追う
1555年、織田信長家臣として動向が見えるのは、清洲城攻めで、森三左は敵大将・織田信友を討つ功績を挙げた。
1556年4月、森可成が、信長公記にはじめて登場するのは長良川合戦2日前で森可成を出陣させており、千石又一と戦いで、肘を負傷してしまいます。
1556年8月、林秀貞、柴田勝家らが織田信行を奉じて織田信長に反旗を翻すと稲生の戦いで活躍をした。
1558年7月、信長は岩倉城攻めに森可成を大将に先陣させたが、包囲されてしまい、死を覚悟したという。この時、前田利家の奮闘により助けられたと伝わる。
1559年、前田利家が拾阿弥を殺害。柴田勝家や森可成らが、助命嘆願した。
1560年8月、信長は西濃侵攻し、森可成らは長井衛安、丸毛兵庫らと戦う。
1561年5月、義龍が急死する。斎藤龍興が後を継ぐが、信長はこれを機に、西濃に入り攻略にしようとする。これを見た長井隼人佐道利は、氏家らと和談し、龍興側について信長に反撃する。
またこの戦いで、のちに森長可と姻戚のなる、池田恒興 (恒興の娘が森長可の正室)と佐々成政が、稲葉又左衛門を打ち取っていることが信長公記に見える。
※この又左衛門というのは、稲葉一鉄の叔父だとも言われる。
1563年 、長井隼人佐の配下には、他にも岸勘解由がいることが見える。信長は岸は助けて配下に加わるよう、言ったらしくその時、金森長近が、以前から顔見知りらしいので、説得してみたいと、濃州堂洞合戦に見える。だが説得、虚しく岸は断って合戦となり腹を切った。
永禄8年1565年8月 金山落城
信長はこの年、中、東濃攻略に信長の家臣である、森可成らが出陣させ、以前、支配下であった長井隼人佐道利の篭る、金山城を奪う。(信長は、金山城の内部を知っている、森可成を使って攻略したのである)、※信長公記では攻略したとあるが、事実は、森可成が金山城の長井隼人佐を説得して、明け渡したというのが本音だろう。長井は龍興と共に伊勢長島へと逃走した。信長は、この金山城に長井隼人佐の支配下であった頃から、所縁のある森可成を在城させる。この一帯を任せられるが、これが後に大事件を引き起こす。
永禄10年1567年8月 稲葉山落城
安藤伊賀守、氏家卜全、稲葉一鉄の美濃三人衆が信長と内通する。斎藤龍興は稲葉山城を退去し、長井と共に木曽川を下り伊勢長島へと逃走し行方をくらます。
また、不破河内守ははじめ斎藤龍興の家臣であった。稲葉山落城の際に信長に帰順する。稲葉一鉄の三男右近方通が、不破河内の娘であり、稲葉一鉄と不破も信長家臣になる以前から顔見知りである。
1568年信長と足利義昭擁立上洛
このような経過で進みます
6.明智城と金山城の関係とは

ここで上の地図を見て互いの城の位置を見て頂きたい。斎藤道三の居城稲葉山城であった岐阜城(稲葉山)と可児市の明智城まで約41キロ離れている。明智城から金山城は約6キロほどしか離れていないのです。また金山城は明智庄とも隣接しており、この場所で、信長が尾張平定以前から睨み合っていたのです。重要なのは木曽川の内に収まっていること。戦国時代の領土争いというのは川を境に分け合って、自領としていたのであるが、如何に縁のある土地を領有し、それらを維持しながら保っていくかの戦いでもあった。

また明智庄は明智城と金山城のちょうど、中間に位置する顔戸一帯にありました。金山城のすぐ北に法華寺での所領の、もうひとつである"米田郷"つまり米田島の米田城もすぐ側に見えます。
ここで肥田忠政を紹介します。誰だと思われるが、織田信長家臣でこの中濃の米田城主であり、織田信長が美濃に侵攻すると、堂洞合戦後に旧領地の知行を認められており、いち早く信長に従ったと見られる信長公記によれば、高野口(瑞浪市)に侵攻してきた武田信玄との戦いで、森可成と共に先駆けを務めている。このようにはじめは信長に協力していたが、先の法華寺所領分配で、米田城(別名 馬串山城)を森蘭丸に与えてしまい、領地を失った人である。
天正壬午の乱で、真田昌幸が北条との領有権で沼田、名胡桃は真田のものであると、北条氏に渡さなかったのがわかりやすい例
話をまとめると、頼芸追放後、一時は蓮台村に戻ったが、金山城主の長井隼人佐道利の支配下にあった、森一族らは当初、長井の従っていた。斎藤道三側にいた明智城とは美濃国において明智が領有していた領地、また明智一族を自害(光安ら)に追い込んで、明智光秀からすべて奪ったと言うことです。明智光秀にしてみれば、明智由縁の地を奪った、長井隼人佐は敵であり、森氏にも恨みを持つことになる。それが顕著として表れるのが、信長がこの金山城に森可成を入れた事により、恨みから因縁へと変わってゆくのです。そしてこの後、両者は、数奇な運命を辿り、お互い織田信長の家臣になります。この家臣内での両者は、ライバル関係、(織田家中での競争関係)にあたります。明智光秀はかつて、羽柴秀吉が競争のライバル視されていましたが、
本当のライバルは別にいた!
しかも
"因縁のライバル"!!!
それが森家一族という事だったです。
7.法華寺事件の真相解明
つまりこの法華寺事件の真相と言うのは、中濃の明智庄を含めて、明智由縁の地である旧領域の可児市の所領を、森家に、二郡とも持っていかれたとでも思ったのです。所領のひとつの米田島は加茂郡だが、金山というところは可児市にあり、当時は金山城(兼山城・鳥峰城)という地名で伝わっています。現在、最も、明智出世の地のひとつとされるのも、この可児市の明智城(長山城)であり、"信長から金山城を森可成に与えられた場所、そして所領分配で森蘭丸に与えた一帯が、境界上にある隣接する明智光秀の旧領地に絡んでいたのである"。
ちなみに、武田氏が東濃侵略して明智城が落ちたのは信長公記にも見えますが、このあけち城は、恵那郡の明知城ではあるが、実は、この明知城、、?明智光秀、出生以前に、(明智と姓を変える前)から、密接な関係があるのですがそれは何れ話したい。

つまりはじめに戻すと甲州征伐で、武田に奪われた領地を取り返した信長は明智光秀がこの時願っていた可児の領域をすべて、森氏に与えてしまう。光秀が懇願して信長に訴えたが、信長の怒りに触れ、直打事件が起こったという経緯があったのです。

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